Culture

おさんぽ案内人が行く難波散歩 大衆芸能の街の名残を訪ねて

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大阪ミナミの繁華街として、多くの人が行き交う難波。江戸期から商業地と演劇・演芸の街として栄え、当時の賑わいは今もそのまま継承されている。原色や巨大オブジェの派手な看板、繁盛する老舗が並ぶ商店街などに目を奪われがちだが、歴史ある繁華街の一角には、大衆芸能にまつわる史跡や由来の地も点在している。

南海電鉄なんば駅。現在の駅舎は4代目で1932年(昭和7年)築
戎橋筋商店街。戎橋を経て心斎橋筋商店街へ続く

駅前のシネコンは映画興行発祥の地


南海電鉄のなんば駅から続く戎橋筋商店街の入口に建つ、TOHOシネマズなんば本館。エレベーターホールの壁面にはめられた銘板が、映画興行発祥の地を示している。前身の南街会館が1953年(昭和28年)に完成した際、当時の東宝株式会社の社長であった小林一三氏が、このことを顕彰して設置されたものだ。

日本初の映画興行は、1897年(明治30年)2月15日から28日に、この地で公開上映。ニューヨークの駅に列車が到着する映像で、フランスに留学した稲畑勝太郎が持ち帰った映写機「シネマトグラフ」を用いて流された。会場だった南地演舞場は当時、芸妓が舞や演舞を披露した場で、のちに東宝系列の映画館になり現在に至っている。

TOHOシネマズなんば本館。近隣には別館も
銘板は最奥のエレベーターの入口そばにある

グリコを臨む橋はえべっさんにゆかりが


戎橋筋商店街を通り抜けると、道頓堀川に架かる戎橋へ。南詰は道頓堀商店街に接し、北詰は心斎橋筋商店街へと続く、界隈の繁華街の中心だ。橋の上からは道頓堀川沿いの水辺を見下ろせ、大阪名物のグリコサインのビューポイントとして、多くの人で賑わっている。

戎橋の上から見渡した道頓堀川の東側の眺望

グリコサインは高さ約20m、幅約10mでLEDで点灯

南詰には親柱を模したモニュメントが立ち、そばの欄干にはめられた銘板には、橋の歴史が刻まれている。戎橋は道頓堀川の開削とほぼ同時の、1615年(元和元年)に架橋。商売繁盛のえびす様を祀る、今宮戎神社の参道にあたり、橋名の由来は今宮戎と関連があるとも。ほかにも千日墓地への墓参や、橋の南側にあった竹本座などの芝居小屋や劇場へと通う客など、多くの人々に利用されてきた橋である。

戎橋の親柱のモニュメント。橋の周囲に4基設置
銘板には橋を題材にした句も綴られている

架橋当初の木橋から、明治期には鉄橋に、大正期には鉄筋コンクリート製のアーチ橋に架け替えられ、現在の橋は2007年(平成19年)にリニューアル。円形の橋上広場が中央に配され、河岸の遊歩道へはスロープが設けられるなど、人々が集い水辺の景色を楽しめる、賑わいの場となっている。

東側の太左衛門橋から戎橋の全景を見渡せる

動く巨大看板の前に位置する人形浄瑠璃の原点


カニやくいだおれ人形といった動く看板、料理や食材のオブジェが店頭で主張する、パワフルな風景に圧倒される道頓堀商店街。江戸期には弁天座・朝日座・角座・中座などの、芝居小屋や劇場が密集。付近にも中小の小屋が数多く集まった、まさに大衆芸能の殿堂だった地である。

道頓堀商店街の西側の入口。付近に竹本座があった
かに道楽道頓堀本店の名物、動くカニのオブジェ

商店街の入口に位置するビルの脇には、竹本座跡の碑がひっそりと立つ。1684年(貞亨元年)に、初代竹本義太夫が人形浄瑠璃の小屋としてこの地に創設。劇作家の近松門左衛門を座付作者とし、氏の作品の多くが初演されるなど、人形浄瑠璃全盛期の礎となった劇場だった。

ビルとビルの間に立つ竹本座跡を示す碑
碑の説明板には近松門左衛門の肖像画も

興行的にも大成功を収め、数年で経営を竹田出雲に譲り繁盛を続けたが、出雲の死後は人形浄瑠璃も衰退。1767年(明和4年)に閉館したものの、人形浄瑠璃は国立文楽劇場で上演が継承。碑のそばの解説版には「文楽の原点、ここにあり」との文字が記されている。

戦後の復興を象徴する球場跡が大規模再開発


なんば駅の南西側、南海電鉄の線路に沿って広がるなんばパークスは、施設全体をひとつの街としてとらえた大型ショッピングモール。広々したアトリウムには、巨大な建物の谷間を抜けていくようにキャニオンストリートがのび、屋上には芝生広場のパークスガーデンが広がる、水と緑が豊かな商業施設である。

なんばパークスは商業施設と環境の融合がコンセプト
パークスガーデンは広さ約1万平方mの屋上庭園

この施設は、かつてプロ野球球団の南海ホークス(福岡ソフトバンクホークスの前身)の本拠地だった、大阪球場の跡に建てられている。戦後間もない1950年(昭和25年)に完成した球場で、焼け跡の中にそびえ立つその姿は「昭和の大阪城」とも呼ばれ、大阪の戦後復興のシンボルでもあった。

大阪球場のスクリーン写真。摺鉢型のスタンドが特徴
関西地区で初めてナイトゲームを開催した球場でもある

球場は南海ホークスのホームゲームに使用されたが、1988年(昭和63年)に球団が買収されて福岡へ移転。使用頻度が減ったことと老朽化から、なんば駅界隈の再開発計画の対象となる。数年間、グラウンドが住宅展示場に使われた後、1998年(平成10年)に閉場し解体。2003年(平成15年)に、なんばパークスに生まれ変わったのである。

南海ホークスの記録が集積するギャラリー


モダンな商業施設の中には、大阪球場の名残をとどめるスポットが、わずかながら残っている。2階の広場の中央には、ホームプレートとピッチャープレートのモニュメントが、球場があった当時の同じ位置に埋め込まれている。ホームベースのそばに立つと、左右にそびえるショッピングモールが、まるで観客席のスタンドのよう。

ピッチャープレートのモニュメント。周囲はマウンド風の装飾
ホームプレートには鷹をモチーフにした南海ホークスのロゴが

9階の一角には南海ホークスメモリアルギャラリーが設けられ、往時の選手の紹介や球場の写真など、50年に及ぶ球団史にまつわる様々な記録を展示。野村克也や鶴岡一人をはじめとする、名選手が使ったユニフォームなどの道具のほか、ペナントにトロフィーといった日本シリーズ優勝時の記念品も。オールドファンにとって、思い出深い品々があふれるコーナーである。

外観には優勝パレードのスクリーン写真が配されている
グリーンがチームカラー。背番号19は野村克也氏

活気ある街並みの片隅に記された、大衆芸能にまつわる様々な記憶。それらに目を向けながら歩けば、庶民の街・難波の歴史的な一面も、垣間見えてくるはずだ。

CREDIT
Videographer :カミムラカズマ
Support :モゲ

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